⑥ J.D. サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」徹底考察!タトゥーの意味は?宗教がヒントに?
◂前回
はじめに
第6回目にしてようやく、場面(1)の最後の謎⑤にたどり着くことができました。
このブログに偶然たどり着いてくださった方、ありがとうございます。くれぐれも逃げ逃げ出さないようにお願い致します。
本日も「バナナフィッシュにうってつけの日」を考察していきます。
続・謎解き
謎①~④は過去回にて
謎⑤ そこに、タトゥーはあるんか?
ミュリエルはホテルの部屋で母親と電話中ですが、夫のシーモアは一人浜辺にいる模様。親子の会話はまだまだ続きます。
(略)「でもね、そんなふうに聞こえるわ。つまり、なにしてるかっていうと、ただあそこで寝ころんでるだけよ。どうしてもバスローブ、脱ごうとしないの」
「バスローブを脱ごうとしないって? どうしてよ?」
「わからないわ。色がなまっちろいからでしょ」
「とんでもない、あの人は日にあたらなくっちゃ。 だめなの?」
「なにしろ、あのシーモアのことだもの」娘はそう言って、また足を組んだ。「あの人ったら、ばかどもに大勢して、入れ墨、みられるのが厭なんですってよ」
「入れ墨なんか、してもいないのに! 軍隊でしたわけ?」
「ううん、お母さん。べつによ」娘はそう言って、立ち上がった。
引用:「バナナフィッシュにはもってこいの日」(著)J.D.サリンジャー (訳)鈴木武樹
「...結局、タトゥーあるの?ないの?」
それが分かれば苦労しないんだがね。ちょっと英語も見てみます。ほとんど同じでしたが、最後の部分。
"He doesn't have any tattoo! Did he get one in the Army?"
出典:J. D. Salinger “A Perfect Day for Bananafish”
"No, Mother. No, dear," said the girl, and stood up.
「タトゥーなんてないじゃない! 軍隊で入れたの?」
「違うわよお母さん。そういうことじゃないわ」
Did he get ~? に対して、はっきりNo, と答えているので文法からしても、タトゥーはないで間違いないと思います。
Q. E. D.
いやいや、あります。あるんですタトゥー。
アダム・スミスの the invisible hand じゃないですけど、
an invisible tattoo が。
・シーモアはなぜ頑なにバスローブを脱がないのか。
これには大きく分けて2説の解釈があります。
B. 戦争で変わってしまった自分を見透かされるから
自然に考えると、Aとなるのですが、Bの可能性が濃厚です。
Aを否定する理由は、2つありますが、その材料は場面(2)と場面(3)にあるので、その際に詳しく取り上げます。
Bには宗教への言及が必要になってきますが、その辺りは詳しくないため、非常にざっくりといきます。まず結論から。
解説していきます。
足は常に汚れる → 足は不浄
宗教が人々の生活深く結びついていたような昔の時代にあっては、服は布を巻き付けたようなものであり、立派な靴は存在せず、道路も舗装されていないし、公衆衛生も未発達。ひとたび外に出れば、足は砂埃や土でたちまち汚れました。これは宗教に関係なく、普遍的なことでもあります。そこから、足 = 不浄の概念が生まれます。
足の汚れを落とす → 身を清める
汚れた足を洗って綺麗にすることは、肉体的な意味にとどまりません。足の汚れを落とすことで、自身の過ちや罪を洗い流し、魂を清め改める。昔の人々にはこのような感覚があり、それがいくつかの宗教的観念にも反映されています。
日本語では、「足を洗う」が一番分かりやすい表現だと思います。
罪や過ちとは異なりますが、「浮足立つ」「足が重い」といった慣用表現もあります。
肉体的なものである「足」は、精神的なものである「心」を表すメタファーになる。
よって、足の汚れ = 心の汚れ となります。
解⑤ 黒く汚れてしまった心は誰にも見られたくない
これでシーモアが脚を見られたくない理由が分かったかと思います。
戦争で酷いものを目にし、体験し、その極限状態にあっては、シーモア自身もまた、残虐な行為を働いた。大勢の仲間が死んでいったが、自分は五体満足で生きている。
シーモアは自分が罪にまみれていることを恥じ、罪悪感にも駆られている。そんな心が表れている脚を他人には一瞬たりとも見られたくないし、見せたくない。
そんな心境から、目に見えるタトゥーはなくとも、バスローブを脱ぐことを嫌がった。バスローブはシーモアにとって、他人と自分を隔てる壁として機能しているともいえます。
以上です。
(補足)サリンジャーと宗教
サリンジャーは元々ユダヤ教徒の父とカトリック教徒の母の間に生まれています。
家族も本人も敬虔な信者ではなかったようですが、サリンジャーの幼少期は1920~30年代頃となりますので、まだまだ宗教と生活の結びつきが強い時代だと言えます。
洗足式
キリスト教の儀式の一つに「洗足式(せんぞくしき)」がありますが、それは以下のエピソードからきているようです。
これは有名な最後の晩餐のあとに起こった出来事とされます。
これによってキリストは、立場は関係ないという「愛」と「謙遜」の心を教えた、というのが基本となる要旨です。
他に、ユダが裏切ることを予め知っていたキリストは、その罪を赦(ゆる)す意味を込めて足を洗った。という解釈もなされるようで、ここからも足の汚れ = 心の汚れ が読み取れます。
戦後は東洋思想に傾倒
また、サリンジャーは戦後PTSDにより小説が書けなくなっていたようですが、そんな彼を救ったのはヒンドゥー教や禅などの東洋思想だったようです。
実は「ナイン・ストーリーズ」の一番初め(物語が始まる直前のページ)には、こう書かれています。
両手を叩いて鳴る音はわかる。しかし、片手を叩いて鳴る音はなにか?
――禅の考案の一つ
「バナナフィッシュにはもってこいの日」(著)J.D.サリンジャー (訳)鈴木武樹より引用。
PTSDに苦しめられていたサリンジャーは、輪廻転生や梵我一如 (宇宙を支配する原理と個人を支配する原理は同一であることを知り、永遠の幸福に達するという考え) 、禅の思想を通じてこの世の真理を求めることで、徐々に回復していったのかもしれません。
終わりに
だんだん真面目な考察になってきて、もっとふざけたいという衝動に駆られたりもします。
- ミュリエルの俗物的人物像の続き
- ミュリエルのとママのやたら面白い会話
- 全てにおいて対照的なシーモアとミュリエル
これらも掘り下げたかったのですが、できずに終わりを迎えました。迷探偵も呆れ果てて匙を投げだしたようです。
次回もどうにか頑張ってみます。
あとは、場面(1)全体を、もう少し分かりやすく短く、一つの記事にまとめられたらと思うのですが、この感じだと限りなく不可能に近いかもしれません(笑)
全く笑えないんですけどね
ありがとうございました。