ブラームスの子守歌

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⑧ J.D. サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」徹底考察!ついにシーモア登場!青と黄色、マリアとシビル

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はじめに

一連の記事について

ライ麦畑 でつかまえて」で有名なJ.D. サリンジャーの短編小説「バナナフィッシュにうってつけの日」を細かく丁寧に考察しています。

難読ともいわれるこのお話。私自身も初めはよく分かりませんでした。

文学作品は敷居が高い印象があり敬遠してしまいがちですが、「実はこんなにおもしろかった!」ということを少しでも多くの人に知ってもらえたらな、と思ってこの記事を書いています(ちょっといい感じにストーリー作ってるかもしれません)。

 

この記事に向いている人
  • 「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んだことがない人
  • これから読もうと思っている人/気になっている人
  • 昔読んだ気がするけど意味不明だったという人
  • 「バナナフィッシュ」という単語だけは聞いたことがあるという人
このような方々向けに記事を書いています

私はサリンジャー初心者でしたが、今では推しになりそうな勢いです。

 

この記事に向いていない人
  • 文学に対する知識と教養が豊富に備わった人
  • サリンジャー作品を読みつくしている人
このような方々はものすごく退屈する可能性があります。

浅学ですが、様々な解釈があると寛大なお心で見守ってください。「サリンジャー、推せる……!」という点では等しいかと存じます。

 

あらすじ

ネタバレを最小限にしたいので、あらすじは限りなく薄いです。気になる方はWikipediaでご覧くださいませ。

(1) とあるホテルの一室から始まります。電話がリンリンなって、若い女性がそれをとる。相手は女性の母親から。母親は娘をひどく心配しています。親子の会話が長々と続きますが、互いの話を遮ったり、話題が転々とし、主旨が何なのかよく分からないままに終了。

(2) 場面が変わり、舞台はホテル近くの浜辺に。ここでは小さな女の子と若い男性が中心人物となります。そして、肝心のバナナフィッシュも二人の会話中に登場。

(3) 幼女と別れた男性は、客室に戻る際のエレベーターでとあるご婦人と乗り合わせ、そこで少し険悪な雰囲気に。

(4) 507号室に戻った男性は、ある大きな、取り返しのつかない決断をします。

「バナナフィッシュにうってつけの日」が収録されています

 

本日から、場面(2)に入っていきます。

 

考察

場面(1) 謎解き

こちらのページにリンクをまとめました。

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場面(2) 謎解き

女の子がお母さんに日焼け止めを塗ってもらっているシーンからスタートします。

見る - もっと シーモア - グラス」と、シビル・カーペンターは言った——彼女は、母親といっしょに、このホテルに泊まっているのだった。

見る - もっと シーモア - グラスした?」

「おネコちゃん、そんなことは言わないの。それ聞くと、ママ、ほんとに気がへんになるわ。お願いだから、じっとしててちょうだい」

(略)

「シビル、じっとしててったら、ネコちゃん」

見る - もっと シーモア - グラスした?」と、シビルは言った。カーペンター夫人は溜め息をついた。

「もういいわ」彼女はそう言って、日焼けどめの油の瓶に、また蓋をした。

「さあ、行って、遊んでおいで、ネコちゃん。ママはホテルに帰って、ハベルさんの奥さんとマテニでも飲んでるわ。オリーブは持ってきてあげるからね」

「バナナフィッシュにはもってこいの日」(著)J.D.サリンジャー (訳)鈴木武樹より引用。

 

シビルがしきりに言っている「見る もっと グラス」は"See more glass" で、直訳するなら「窓ガラスをもっとみて」とか「鏡をもっとよく見て」。

 

もちろんこれは、シーモアの名前、"Seymour Glass" のことなのですが、シーモアをもっとよく見て」とも解釈できます。ミュリエルに伝えたい言葉ナンバーワンですね。読者に語りかけているともとれます。

 

シビルの母親は人名を口にしているとは思っていないので、何度も同じことを言わないで、とうんざり。子猫ちゃんと言っていますが、小さな子供に対する愛称のようなもので、「猫」がキーワードというわけではありません。

 

マテニはマティーニのことです。ジンとドライベルモットで作る辛口のカクテルですが、「オリーブは持ってきてあげるからね」というママのセリフ。気になりません?

 

実はあとでもう一度登場します。

 

母親から解放されたシビルは砂浜を駆け出していきます。途中、水浸しになって崩れたお城に片足をつっこみ、その後、宿泊客向けに指定された区域外に出てしまいます。

 

(略)そして、とつぜん立ちどまったわけだが、そこの、彼女が行きついた場所には、若い男がひとり、あおむけに寝ころがっていた。

「水に入る、 見る - もっと シーモア - グラス?」と彼女は言った。

若い男はぎくりとして、右手が思わず、テリ織りのローブの、襟の折り返しのところへ行った。

ついにシーモアが登場。人の気配に驚いて、思わずバスローブを確認します。彼にとってこれは、

周りと自分とを隔てる壁

のような役割を果たしているというのは、7回にやりました。テリ織りというのは、タオル地のことです。

 

闖入者がシビルだと分かるとシーモアは途端にリラックスした様子に。気さくに話しかけます。

(略)「なにか変わったことは?」

「なに?」

「なにか変わったことは? きょうの予定はなんだい?」

「パパがあした、ヒコッキで来るの」シビルはそう言いながら、足で砂を蹴った。

「顔にはよせよ、おちびちゃん」若い男はそう言って、彼女の踵に手を掛けた。

ヒコッキ=飛行機です。英語では"nairiplane"となっています。飛行機が上手く発音できないシビル。可愛い。

 

この件と、少し前にあるこちらの一文。

彼女はカナリヤ色のツーピースの水着を着ていたが、そのうちの一方は、実のところ、まだ九年や十年は、彼女には要らなかった。

これらから、シビルはまだかなり小さいと分かります。4歳か5歳くらいかなという印象。ただシビルの年齢に関しては開きがあって、最小で3歳半、最大で6歳までの解釈があります。

 

小さな子供を置いて、ホテルのバーラウンジかどこかにお酒を飲みに行ってしまった母親。「シーモアグラス?」の意味ももちろん理解していなかった。ここにもコミュニケーションの希薄化や物質主義が表れています。

 

それにしてもサリンジャー先生の婉曲表現って卓越してますね。

 

 

「あの女の人はどこ?」とシビルがミュリエルについて尋ねますが、「どこにでもいそうだしな」「髪の毛でも染めてもらってるんじゃない?」と他人事。「それより他のこと聞けよシビル」とシーモア

「きれいな水着、着てるじゃないか。おれの好きなものが一つだけあるとすりゃな、それは青い水着さ」

シビルは彼をじっと見つめ、それから、自分の突き出たおなかを見おろした。

「これは黄いろよ」と、彼女は言った。「これは黄いろよ」

「そうか? もうちょっと近くへ来てみな」

シビルは一歩、前に出た。

「まったくそのとおりだ。ばかだなあ、おれは」

「水にはいる?」とシビルは言った。

 

全くもってキュートな会話です。

ですがこのやり取りは、様々な見方ができる非常に考察しがいのある会話でもあります。

 

ふざけてるの?本気なの?

シーモアは、ただ冗談を言ってシビルとの会話を楽しんでいるようにもみえます。しかし、直前までのミュリエルと母親との会話でシーモアがかなり不安定な状況にあると分かっている読者は、

 

青と黄さえ見分けがつかないほどに現実から乖離した状態にあるってこと?

 

と、シーモアの心理状態について揺さぶりをかけられます。そう思うと、「もうちょっと近くに来てみな」という発言もどこか不穏に響きます。

 

無垢な子供の目が捉えるもの

シーモアの明らかな間違いに対して、シビルはとても純粋な反応をします。大人の世界であれば、口には出さないでしょうが「どう見ても黄色よ。あなた正気?」となるところ。けれどシビルはシーモアをじっと見て、それから自分を見て、「これは黄色だよ」と訂正するわけです。そしてもう一度繰り返す。

シーモアが見ている景色を見ようとする
自分の水着をしっかり観察する

まさしく、see more glass ですね。世俗に染まった大人の目には映らなくなった景色が、シビルにはまだ見えています。

 

 

ここから、宗教色が一気に強くなります。

 

マグダラのマリアという変化球

ナイン・ストーリーズの8番目に収録されているお話「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」に、こんな一文があります。

追伸。この前の手紙で、わたしはたまたま、あなたのあの宗教画の前景にいる、青い衣服を着た若い女性は、罪びと、マグダラのマリヤであるのかどうかと、おききしました。

「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」(著)J.D.サリンジャー (訳)鈴木武樹より引用。
(問) マグダラのマリアって誰やねん。聖母マリアと違うん?
(答) 違うねん。そっちじゃないほうの、2番目に有名なマリアやねん

マグダラのマリアは一般に「イエスの死と復活を見届けた証人」と言われます。

 

彼女はイエスキリストの磔の際に立ち会い、復活後のイエスが最初に会った人物もまた、このマグダラのマリアであったことからきています。

 

昔は識字率が低かったので、絵を見ただけで聖書に出てくる人物が誰か識別できる「サイン」が必要でした。そのサインをアトリビュートといいます。特定の人物を表すモチーフのことです。

 

仮に、男の人が一人、絵画の中にいたとします。誰かはわかりません。

 

でも、その人の口元に八重歯を生やし、黒いマントを着せ、背景に棺やコウモリを加えたら、それは「吸血鬼」と特定されます。これがアトリビュートです。



 

有名な聖母マリアアトリビュートはいくつかありますが、彼女はいつも、「赤い服」に「青い羽織もの」と決まっています。

 

マグダラのマリアにもくつかありますが、キリストの死体に香油を塗ろうとしたことから、「香油壺」を抱えているのが一番ポピュラーです。そして必ずではありませんが、「緑の服」に「赤い羽織もの」というのが彼女のスタイル。

 

どちらにしても、聖母マリアが「青い羽織もの」なのは西洋圏なら誰もが知っていること。それを、マグダラのマリアですか?と聞いているのは違和感。

 

そして今回もサリンジャーは、明らかに黄色のものを、「青ですか?」と聞いている。

あ、シーモアか。

 

話を戻すと、マグダラのマリアは「死と復活を見届けた人物」というわけです。

 

ポイント「死と再生」

この概念が、場面(2)だけでなく物語全体を通してかなり重要になってきます。

 

 

 

大分長くなってしまったので、続きは次回。

 

 

終わりに

 

この後、シャロン・リプシュッツという強敵が表れます。

そしてシビルは預言者です。

 

 

 

 

あれだけネタバレを嫌いながら、盛大にやりました。

シビルが預言者と明示されているわけではないので、厳密にはネタバレではありませんが。

 

 

 次回、「深読みという名の地獄へようこそ」

 

 

 

▸次回

 

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ありがとうございました。