ブラームスの子守歌

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⑫ J.D. サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」徹底考察!バナナフィッシュとは結局…?核心に迫る!

 

 

◂前回

handbook24.hatenablog.com

 

はじめに

 

前回はこんな感じでした。

⑪まとめ
  • 6という数字にみえるこだわり
  • オリーブ&ろうそくは何を表すのか
  • 出版には至らなかった作品「倒錯の森」

 

考察

場面(1) 謎解き

こちらのページにリンクをまとめました。

handbook24.hatenablog.com

 

 

場面(2) 謎解き

バナナフィッシュとは? 考えられる2つの解釈

 

結局、バナナフィッシュとは何のメタファーだったのでしょう。結論からいってみます。

結論 :戦争で変わってしまったシーモア自身やその仲間
:ミュリエルに象徴的な物質主義者の際限ない欲望

上記2説が大半です。

 

会話にヒントを探ります。

「目はちゃんとあけて、バナナフィッシュを見つけるんだぞ。きょうは、バナナフィッシュにゃもってこいの日だからな」

「1ぴきも見えないわよ」とシビルは言った。

「そりゃそうさ。連中はな、とてもへんな癖があるんだ。とってもへんなな」
  (略)

「連中の暮らしぶりっていうのはな、ものすごく悲劇的なんだ」と、彼は言った。

「知ってるだろう、シビル、それがどんなか?」
彼女はかぶりを振った。

「いいかい、連中はな、バナナがたくさんつまってるむろがあると、その中へ泳いではいっていく。まったくありふれたさかかなだよ、泳いではいっていくときはな。ところが、一度中へはいってしまうと、まるで豚みたいになる。なんと、おれの知ってるところじゃ、バナナのむろの中へはいってな、78本もバナナを食ったバナナフィッシュがいる」
  (略)

「もちろん、そのあとじゃ、太りすぎちゃって、もう2度と、むろからそとへは出られないけどな。戸口を通りぬけることができんのさ」
  (略)

「そうすると、どうなるの?」

「どうなるって、だれが?」

「バナナフィッシュよ」
  (略)

「ううん、言いにくい話だな。死ぬんだよ」

「どうして?」とシビルは聞いた。

「そうだな、バナナ熱にかかるのさ。こわい病気だ」

「バナナフィッシュにはもってこいの日」(著)J.D.サリンジャー (訳)鈴木武樹より引用

 

バナナのむろ(banana hole)に入る前は全くありふれた魚なのに、いったん入ってしまうと、たくさんのバナナを食べて太り、そこから出られなくなってしまう。バナナ熱にかかり、最後には死んでしまう。確かに悲劇的ですね。

 

2つの説に沿って自分なりに解釈していきます。

 

帰還兵の苦しみが生んだ架空の生物
戦争に行く前は普通の人間なのに、戦場では人が変わったように残虐な行為を働くようになり、元の世界には戻ってこられなくなる。精神を病み、最後には死んでしまう。

 

戦後PTSDに苦しむ人々。想像に難くないと思います。ただ、78本のバナナが78人の人を殺したことそのもののを表すのかといわれると、うーん……。

 

7つの大罪ってありますけど、あれって元々は8つだったみたいですね。罪というより、人間を死に至らしめる感情や欲望だとか。でもこれも今一つ。何か思うところがあれば、ぜひ教えてください。

 

 

 

戦後アメリカ社会を皮肉るメタファー
元々は普通なのに、物欲に駆られ精神的に肥え太り、その世界から出てこられなくなる。熱に浮かされたように際限なく多くの物を求め、物質主義に踊らされる前の自分は死んでしまう。

 

物質主義(マテリアリズム)がこのお話の主要なテーマであることは間違いないようです。そこから考えると、バナナフィッシュは戦後アメリカ社会の人々を皮肉るためのメタファーにも思えます。

 

眺めのいいホテル、ランクの高い部屋、豪華な食事、華美な洋服、高級な家具に高性能な家電…等々。きりがないですね。

 

 

結局どっちなの?

 

最初は、帰還兵の苦しみを象徴しているのだと思っていました。

 

go bananas に熱狂する、頭がいかれるのなど意味があるのですが、これはバナナを前にしたサルが狂うほどに喜ぶ姿からきているそうです。

 

このまま考えると、バナナ熱(banana fever)はPTSDというより、大量生産大量消費の時代であったアメリカに生きる物質主義の人々を象徴しているように思えます。

豚のようになる、という表現も軽蔑的な感じがし、シーモアの社会に対する冷ややかな視線と合致している印象を受けます。馬鹿どもにタトゥー見られたくない、とか言ってましたしね。

 

ただ、最後に死んでしまうという点や、悲劇的な生き方、というワードは戦後も苦しめられている兵士がしっくりときます。

 

(問) どっちなの?

      ・

      ・

      ・

(答) …どっちもじゃない?

 

核心に迫った気は露程もしませんが、こんなところです。

 

 

踵ホールドからの踵にキスで魔法は解けました

 

シーモアに押される浮き輪の上で、波を頭から被ったシビル。

 

バナナフィッシュが1匹見えた!と報告します。6匹のバナナを咥えていたそう。

 

小さな子供は想像力の賜物ですね。

 

預言者のシビルと普通の人には見えないことが見えてしまうシーモア(see more)は似た者同士でもあります。純粋な心をもち、大人の世界では見えないものが見られる。

 

精神的な繋がりを感じたのか、自分の世界を受け入れられた喜びからか、シーモアは感激してシビルの踵にキスをします。無垢な象徴たる子供の足、です。

 

ねぇ!とシビルは声を上げます。抗議の声なのかは分かりません。こっちもねぇだよ、とシーモアは返し、もう十分だろ?と引き返します。まだ!と遊び足りない様子のシビルでしたが、結局は浮き輪から降りて、駄々をこねることもなくあっさりとホテルへ帰っていきます。

 

シーモアがシビルの踵にキスした瞬間、夢のような時間は終わり、現実に戻ってきてしまった感じがしました。
 

 

シビルが退場したのは寂しいですが、とりあえず、海で死ぬことなくシーモアが帰還して良かったです。初めて読んだとき、裏事情はなにも分からなかったものの、

 

あれ、この人シビル連れてこのまま沖まで行っちゃわないよね?

 

と少しドキドキしました。

 

 

牧神と巫女の恋愛疑惑??

 

サリンジャー先生はミュリエルやシーモアを散々「若い女」とか「若い男」、と表現しているわりに、シビルを「子供」だとか「女の子」とは表現しないんです。

「浮き輪に乗っている人」「足の持主」とか、そういうユニークな表現はあるけれど。

 

何というか、シーモアがシビルを疑似恋人扱いしている感じ…?がそこはかとなくあるんですよね。幼女にフラートを仕掛ける成人男性がそこには居る、気がする。

 

シビルも同様に、シャロンの存在に嫉妬しているし、自分がシーモアにとっての1番じゃなきゃいや!という雰囲気がある。

 

帰還兵を題材とした小説で、サリンジャーと同様に戦争を経験したヘミングウェイの「兵士の故郷 (Soldier’s Home)」があるのですが、ここに似たような構図が見られます。

 

第一次大戦から故郷オクラホマに帰国した主人公のクレブスは、シーモアと同じようにもとの生活に適応できず、PTSDに苦しんでいる。彼には妹のヘレンがおり、ヘレンはとても兄を好いている(兄LOVEな妹です)。兄であるクレブスも、他の女性には全く興味なしといった感じだが、唯一ヘレンには好意的な態度をとる。

 純粋な兄妹愛であるものの、シーモアとシビルの関係性を連想させます。

 

戦争のトラウマを抱えた成人男性が、無垢な心をもつ少女との交流によって傷を癒す

というのは共通することなのかもしれません。

 

重要なのはやはり、世俗のあれれこれを知らず、汚れなき心の持ち主であるということでしょう。打算も下心もないまっすぐさに救われるのは、シーモアやクレブスに限らず我々大人も同じですね。

 

好色な牧神パンがニンフと戯れているという想像もできるかもしれません。

 

前々回くらいの補足

少し話が逸れますが、シーモアは正確には「僕は山羊座だ」というより、「僕は山羊(カプリコーン)だ」の方が近いと思うのです。

 

"I'm Capricorn," he said. "What are you?"

一般的な言い方なら、I'm a Capricorn となる。「私は山羊座(の人)です」

 

なのでこの発言は、

「俺は牧神パンなんだけど、君は何?巫女のシビュラでしょ?」

としか聞こえない。私には。

 

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いろんなところにいろんな考察が散らばっている。毎回ノープランではじめるから駄目なんだよね…そうだよね…

 

一通り終ったら整理します……きっと。

 

 

ミュリエルだけ仲間はずれらしいよ

シーモア、シビル、シャロンの名前を掘り下げて、ミュリエルだけ放置するのは不公平。ということでミュリエルの語源をチェック。

 

Murielは、ゲール語(アイルランド)で輝く海という意味だそうです。

これはサーカズムなのでしょうか先生。高度すぎてついていけません。ミュリエルは海の名前でありながらも、シビルとシーモアの世界には加えてもらえないのでこれは皮肉。という見解もありました。

 

他の3人の頭文字はSなのに、ミュリエルだけはM。偶然でしょうけど。

 

短編小説でありながら、シーモアとミュリエルが通じ合っていないことを暗に示す描写は、随所に登場します。

 

そして、2人が会話を交わすことは一度もないまま物語は幕を閉じてしまうのです。

 

 

おわりに

 

今回で場面⑵はおしまいです。ぬるっと終わりました(笑)

この辺が一番盛り上がるだろうなと当初は予想していましたが、物語のピークと私のパッションの波は同期しませんでした。

 

場面⑶と⑷は結構さっくり終わると思います。

 

ミュリエルとシーモアの結婚生活(結婚観?)に少しだけ言及する予定です。散々ミュリエルをこき下ろしてきたので、最後は素敵な夫婦として着地させたいですが、まぁ無理な気はします。

 

ありがとうございました。