⑬ J.D. サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」徹底考察!エレベーターで事件発生。ラストまでノンストップでいきます。
◂前回
はじめに
前回はこんな感じでした。
- バナナフィッシュは何のメタファーか
- 踵にキスで夢の時間は終了
- ミュリエルは「輝く海」だった
考察
場面(1)(2) 謎解き
こちらのページにリンクをまとめました。
今回から場面⑶に入っていきます。
場面(3) 謎解き
海から戻ったシーモア。ホテルのエレベーターでちょっとした事件が。
ホテルの事務からの指示によると、海水浴をした客は第二メインフロアを用いなければならないことになっていたので、そこからエレベーターに乗りこむと、この若い男は、亜鉛軟膏を鼻に塗った婦人といっしょになった。
「ぼくの足を見てらっしゃいますね」エレベーターが動きだしたとき、彼はそう言った。
「なんでございますって?」
「ぼくの足をみていらっしゃいますねって、そう言ったんですよ」
「なんでございますって? 偶然、ゆかを見てただけですよ」夫人はそう言って、戸口のほうを向いた。
「ぼくの足を見たいなら見たいで、そう言ってくださいよ」と、若い男は言った。「こんなとこで、こそこそ、くそいやらしいまねはせずにですね」
(略)
「おれの足は二本ともちゃんとしてるんだ。だれにだって、じろじろ見られる理由は、これっぽっちでも、くそあるものか」と、若い男は言った。「五階で頼むよ」そして、ローブのポケットから部屋の鍵を取り出した。
場面⑴から散々、シーモアは不安定だと言われてきました。母親はミュリエルに危害が加えられるのではないかと心配し、シビルとの会話では波に揺蕩うクラゲのようにふらふらとし、現実味がない。この男は正気か狂気か。決定的なシーンは何一つないまま、読者はその判断を先送りにせざるを得ませんでした。
が、ようやく誰の目にも明らかな形で、シーモアの攻撃性を目にすることとなります。それが、このシーンだったというわけです。
謎⑦ 足をチラ見されてキレるシーモア
実際に婦人は足を見ていたのだと思います。しかし、シーモアが思うような理由ではなく、海で濡れて砂がついた足を「あら~床が汚れちゃうわ」といった心境で見ていたのだと考えます。
ホテルが第一ではなく第二メインフロアを指定している、という記述を敢えていれている理由もこの辺りにあるのではないかと。
シーモアの足に”タトゥー”はあるのか、そしてそれは傷痕のことなのか?という点に関しては、⑥でやりました。
この時と考え方は変わりません。
もし傷痕があるのなら、バスローブを脱いだ時点で、シビルが「どうしたの?」と尋ねるのが自然です。他人の傷に触れてはいけないという暗黙の了解は、ある程度大人になってからでないと分かりません。
足はやはり、心理的な純潔性の象徴と考える方が矛盾ないかなと思います。
亜鉛軟膏がトリガー
自分の足は二本ともしっかりしている、というシーモアの発言。明らかに戦争での嫌な記憶を呼び起こしています。
視覚や聴覚とは違い、嗅覚からの信号は記憶を司る海馬にほぼダイレクトに送られることから、匂いと記憶は非常に結び付きやすいものとなっています。
亜鉛軟膏には抗炎症作用の他に、皮膚の再生を補助する働きがあります。婦人は日焼けした鼻に塗ったのでしょうが、シーモアにしてみればそれは戦場、または野戦病院で散々嗅いだ匂いだったはずです。
砲撃や地雷で体の一部を失った仲間たちを思い出し、「自分の足はまともだ」というような発言をしたと推察します。
また、この場面は起承転結でいうところの転にあたるのかなと個人的には思います。
ギリギリのところを保っていたシーモアの精神バランスが崩れた、その瞬間だったのではないでしょうか。
場面⑶が秒速で終わったので、最後まで行きましょう。
エレベーターを降りたシーモアは507号室へと戻っていきます。ラストまで一気に駆け抜けます。
部屋の中は、新品の、子牛のカバン類や、マニキュア・リムーバーの匂いがしていた。彼は、ツインベッドの片方で寝ている、あの若い女をチラッと見やった。
それから、カバンの一つに近づいて、それをあけると、中に詰まっているショートパンツやアンダーシャツの下から、口径七・六五のオートギーズ自動拳銃を取りだした。そして、弾倉を抜き出し、それを見てから、また中に戻した。彼は撃鉄を起こした。
それから、あいているほうのベッドに近づいて、その上に腰を下ろすと、若い女のほうを見やり、ピストルの狙いを定め、そうして、弾丸を撃ちこんだのは、自分の右のこめかみであった。
シーモアの自殺と共に物語は幕引きです。こういってよければ、鮮やかですね。
最後の最後まで銃口の向けられた先が分からない。そして分かった時にはもう、シーモアは舞台からもこの世からも存在を消している。強烈な引きでした。
ミュリエルとシーモア、そしてサリンジャー
心が通い合わない夫婦
シーモアとミュリエルのすれ違いぶりについては随所で取り上げてきました。この二人は一度も会話することがないまま物語は終わりを迎えますし、シーモアが精神世界に重きをおいているのに対し、ミュリエルは潔いまでの物質主義です。
場面⑴に登場するミュリエルが身にまとっているのはシルクのガウン一枚なのですが、結婚指輪はバスルームに置きっぱなしになっているのです。
初めから、結婚生活の破綻を窺わせます。
サリンジャーの恋愛遍歴
サリンジャー自身は3度結婚しているようです。
一度目は、軍病院で知り合ったドイツ人女性シルビア・ウォルター。ただ彼女とは2年足らずしか続かず。映画で見ると、殆ど会話することもなくミステリアスな感じで登場し、いつの間にかふらっといなくなります。
2度目は14歳年下のクレア・ダグラス。1955年に結婚し、一男一女(マシューとマーガレット)を授かるも、67年に離婚。12年間の結婚生活(後半殆ど別居)でした。
その後、35歳年下(!)のジョイス・メイナードと一時同棲生活をしていたとか。18歳のイェール大生と、53歳の作家。なんてことだ。しかも彼女はサリンジャーの為に大学をやめている。なんてことだ。
で、後々になって3番目の妻といえるコリーン・オニールの存在が明らかになります。1992年にニューハンプシャー州コーニッシュにあるサリンジャーの自宅が火事になり、その通報をしたのが彼女であったことがきっかけ。彼女はなんとサリンジャーの40歳年下(!!)。1988年からの付き合いだったよう。
先生…14歳年下でも驚きなのに、40歳はもう…それはもう、ないよ…
ミュリエルのフォロー
サリンジャーの最初の交際相手ウーナ・オニールは彼がイギリスかどこかの兵舎で訓練を受けている時に、突然チャールズ・チャップリンと結婚してしまい彼は相当傷心したので、それを思えばシーモアの帰りをずっと待っていたミュリエルは「輝く海」でもいいんじゃないかな、と思います。
彼が引き金を引く直前には眠っている妻のことを見ているし、彼女の横でその生涯を終えることを選んだのだから (ミュリエルを撃つのではないかと思わせるミスリードの為だけの可能性も高いけれども、それには目をつぶる)、まあ少しは、気持ちがあったんじゃないかな、と。
そういうことにしておきたいです。
考察してみての感想
初めて読んだ時、理解していない多くのことはあったものの、シーモアの自殺にあまり驚かなかった自分がいます。皆さんはどうでした?
ミュリエルを撃っていたらどうでしょう。「え?それは違うでしょ~」と、驚きというより拍子抜けし、納得いかない自分が想像できます。小説の魅力も急速に失われてしまう。ロジックを理解していなくても、感覚的に分かるものってありますよね。
後年の作品で、シーモアの自殺は7歳の時既に心に決めていたと書かれているようです。もうこうなると、フレキシビリティが高すぎてついていけません。グラス家は神童揃いですから、通常の子供とは違い、この世の真理を見抜ぬくことができるのでしょう。
理解するには材料不足
色々考察した現在では、シーモアの自殺こそ終わりの始まりというか、グラスサーガの原点なのだな、と分かります。ナイン・ストーリーズの最後の話、テディによって再生というか転生の可能性が示唆され、長男シーモア不在後は、次男のバディが専らグラス家の物語の語り手として機能していくようです。
シーモアとバディは二人で一つといった解釈も存在するほどで、この二人はサリンジャー自身の投影でもあることから、サリンジャー、シーモア、バディは切っても切れない関係です。なのでバナナフィッシュにうってつけの日を単体で考察しただけでは、全体を捉えるのは不可能に近い。残念ながら。それでも現時点である材料で、できる限りの考察をしてみました。
二層構造からなる物語
サリンジャーの作品は、戦争を書かない戦争文学とも言われたりしますが、ここまでやってきて感じたことは、バナナフィッシュにうってつけの日は2つの観点から論じることができるのではないかということです。
一つは、戦争により心を病んだ人間の物語であるということ。これは比較的分かりやすいし、ある意味本質的でもあります。ただこれだけだと、戦争でのトラウマから自殺に至った。という解釈で終わります。
もう一つ、その下にあるのが、サリンジャーの深い精神世界を反映させた物語。ここを踏まえると、シーモアの死は輪廻のサイクルの中の一つの要素として定義し直され、物語の終焉ではないのだな、と新たな解釈をすることができます。
サリンジャーの心理を深く理解しようとするならば、キリスト教だけでなく禅やヴェーダンタ哲学に精通していないと難しいかもしれません。その他に古典や有名文学の素養も必要かなと。私自身文学素人であり、教養があるわけでもなく、物語を読み解くのに必要な知識を備えていないのであれこれ言えませんが。
戦後PTSDから小説を書けなくなり、東洋神秘思想にのめり込むことで少しずつ回復していったサリンジャー。けれど結果的に一般読者には理解しえない領域まで行ってしまったのかなというのが現時点での所感。
あまりにも凄惨な経験をすると、生涯それを口にしたりすることはできないのだと思います。その経験は、作家としてのサリンジャーに途轍もないプラスとマイナスを同時にもたらしたように感じます。2010年に91歳で亡くなるまで隠遁生活を続けたサリンジャーですが、戦争体験に関しては最小限しか語らなかったようです。
おわりに
終始一貫してブレブレ(もはや対義語)という構成のずさんな記事でしたが、今後も細々とサリンジャー関連の考察やら感想やらを続けていきたいです。
サリンジャーの作品は至る所にグラス家の人々が登場し、シーモアの自殺を完璧なものにしようとする試みが図られているようなので、そちらを読めば、サリンジャー先生への理解が深まりそうです。もしくは余計分からなくなるのか。おそらく後者でしょう。
J.D.サリンジャーという偉大な作家の沼は広く、とてつもなく深いということが判明した現在。自分では結構な深みに嵌ったのかと思っていましたが、浅瀬で泣き喚いていただけのようです。
彼を推しと言うには100年早いみたい。
ありがとうございました。