⑦ J.D. サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」徹底考察!物質主義ミュリエルvs精神主義シーモア
▸前回
はじめに
本日で第一場面を終わりにしたいと思います。この世で誰よりも強く、ここで決着をつけたいと思っています。
そうでないと「バナナフィッシュ」というワードには永遠にたどり着けません。
応援よろしくお願いいたします。
考察
場面⑴ 謎解き
謎①~⑤は過去回にて
物質主義と精神主義
何やら難しそうな言葉が出てきましたが、字から受け取るイメージそのままで大丈夫です。
「バナナフィッシュにうってつけの日」では、物質主義を表すのが妻ミュリエル、精神主義を表すのが夫シーモとなっています。サリンジャーは物質主義を是としておらず、ミュリエルを人の心の機微が分からない思慮の浅い人間として描いています。
ということですね。
例として、ミュリエルが外見(≒ファッション)ばかり気にしていることは第4回で取り上げました。それは会話中も同じです。
ミュリエルのプライオリティはやっぱり……
「一緒に飲まないかって誘われたから付き合ったけど、奥さんの服装がひどいの。ボンウィット(店の名前)で見た夜会服覚えてる?あのすっごい短くてピッタリしたラインの――」
「あの緑の?」
「そう。あれを着てたの。お尻もあの通り。それにシーモア(・グラス)はスーザン・グラスと親類なんじゃないかってしつこいの。――あの、マディソン街で、婦人帽のお店持ってるね」
「だけどお医者さんはなんて言ってたの?」
「うーん、別に。大したことじゃないの。私たちバーにいたし、すっごいうるさくて」出典:J. D. Salinger “A Perfect Day for Bananafish”
夫の精神状態 < 他人の服装チェック
ミュリエル、またやらかしちゃってる……。
物質主義を示す象徴的な会話です。
そしてシーモアはドイツ語の詩以外に、ピアノを弾くことが分かり、文化的なものや芸術を重んじる人間だと分かります。精神主義を示しています。
また、第6回で「なぜバスローブを脱がないのか?」ということについて掘り下げましたが、それはシーモアの心理と密接に関わりがありました。ところがミュリエルは、その理由について、「さあ?青白いからじゃない?」と表層的なことにとどまっています。
ここでも、外見重視(妻) ⇔ 内面重視(夫)が対比されています。
コミュニケーションの希薄化
これもまた、このお話のテーマの一つです。物質主義的なものと合わせて随所で見て取ることができます。
場面⑴における象徴的なシーン
- ミュリエルは電話が鳴ってもすぐに取らず、自分のネイルを優先
- 互いの話を遮り、最後まで聞かない。会話が噛み合っていない。
- (バーに誘われて他者との交流が生まれるも)騒がしく何を言っているかほとんど聞こえない
物質的なものに支配されることで、人は物事の表層的なことしか捉えられなくなり、他者とのコミュニケーションにもそれが現れる。内容の薄い会話に終始し、意思伝達に齟齬があっても気がつかない。
▾番外編
ミュリエルとママの会話 個人的ベスト3
英語ではそこまでなのに、日本語で読むと異常に面白く感じられる部分。
ミュリエル →(ミ)
母親 →(母)
3位 もはや悲しい
ドイツ語の詩の件について尋ねるミュリエル
(ミ)「(略) それか、ドイツ語勉強せよってね、ねえ、どうでしょ?」(母)「いやだねえ。いやだねえ。悲しいくらいのものだわ、ほんとに。(略) 」
引用:「バナナフィッシュにはもってこいの日」(著)J.D.サリンジャー (訳)鈴木武樹
色々通り越して悲しいみたいです。
2位 長すぎる
バレリーナ服について尋ねるママ
(母)「おまえのバレリーナ服のぐあいはどうなの?」
(ミ)「長すぎるわ。言ったでしょ、長すぎるって」
とにかく長いらしいです。
1位 いつ何時もシリアスなママ
日に焼けた?日焼け止め使わなかったの?というママ
(ミ)「使ったわよ。でも、とにかく日焼けしたの」
(母)「とんでもない話だねえ。どこが焼けたんだい?」
「からだじゅうよ、ママ、からだじゅう」
「とんでもない話だねえ」
とんでもない話だそうです。
ちなみに、シーモアは青白いのに、ミュリエルは体じゅう日焼けしているというところからも、夫婦の対照的な姿が窺えます。
終わりに
とんでもない話だねえ。という相づちを打ちたくなりました。
どなたかとんでもない話を持ってきてください。
次回は、場面(2)に入っていく予定です。
お読みいただきありがとうございました。
▸次回